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「特撮」を体験し、試行錯誤する「ものづくり」の精神 尾上克郎(前編)

『シン・ゴジラ』(2016)、『新幹線大爆破』(2025)などの作品に準監督、特撮監督、VFXスーパーバイザーとして関わる特撮研究所の尾上克郎さん。アナログ特撮とデジタル技術の双方に通じたスペシャリストであり、現代の映像文化を語る上では欠かせないクリエイターです。キャリアの初期から特撮研究所で「スーパー戦隊」シリーズや「メタルヒーロー」シリーズで操演技師として活躍する一方で、特撮研究所へのデジタル技術の導入を牽引してきました。
前編では、そんな尾上さんがいかにして特撮やCGと出合い、そして仕事にしてきたのかについて、お話を伺いました。

「今、自分が使えるものは何でも使おう」

2026年は、「ウルトラマン」シリーズの60周年です。尾上さんは1960年生まれですので、66年の『ウルトラQ』は直撃世代ですよね。尾上さんの「ウルトラマン」シリーズの原体験をお聞かせいただけますでしょうか。

それまで怪獣は、映画館でしか見ることができなかったんです。それが、毎週決まった時間にテレビで視れるんですから、子供たち、特に男子どもは熱狂していました。少年雑誌にも、「特撮の秘密」みたいな特集記事もあって、よく円谷英二監督が写真付きでインタビューなんかに答えていらして、僕らの世代にとって、円谷監督はヒーローだったんですよ。

円谷英二の解説記事は、今でいう特撮メイキングの元祖のようなもので、子供たちが「特撮」を身近に感じる上で大きな機能を果たしていましたよね。当時の子供たちは、あの作品のどこに惹かれたのか、尾上さんは今どのように考えられますか。

今ほど娯楽が多い時代でもないし、アニメもそこまで刺激の強いものはなかった。毎週、怪獣が出てきて、ウルトラマンと格闘して、爆発するでしょ。あの頃の子供の好物が全部詰まってて、それはたまりませんよ。米ソの宇宙開発競争のお陰で、宇宙も科学も、不思議な事も子供たちに身近だったし、科学万能!明るい未来が待っている!みたいな。でも、あの頃は戦後の高度経済成長の真っ只中で、明るい未来を信じたいけど、冷戦やら、安保闘争やら、公害とかもあって、明日はどうなるかわからない、みたいな漠然とした不安を大人たちは抱えていて、そういう空気感をウルトラマンは見事に映していたではないかと思います。
『ウルトラマンZ』PV

尾上さんはその後、「ウルトラマン」シリーズの作品にもいくつか携わられることになるわけですが、テレビシリーズでは『ウルトラマンZ』(2020)の第9話、第10話で、特技監督を担当されていましたね。

円谷プロの北浦プロデューサーにお声がけくださったときは「本編監督も」という話だったのですが、他にも仕事を抱えていたので難しかったんですよ。そこで、僕らのチームで助監督を何本も努めてくれた中川(和博)君を本編監督に推薦して、北浦さんに「特技監督だけなら」と、言うことでお許しいただきました。

『Z』の第9話、第10話で印象的な場面と言えば、何と言っても、ロボット怪獣のキングジョーが手を伸ばして車を掴もうとするところの主観ショットかと思います。あのシーンの撮影では、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)で円谷英二が行った、山のミニチュアを回転させて飛行機が前に進んでいるように見せる技法が現代的な形で使われていましたよね。私も書籍などで得た知識として、その技法の存在は知っていましたが、他ではなかなか見られない映像だったので、すごくインパクトがありました。

せっかく円谷プロでやれるのなら、一発撮りでなにか面白いことがやりたかったんです。それで思いついたのが「ハワイ・マレー」のあの有名な仕掛け。それに合わせてコンテを考えました。

昔ながらの技法を活用した表現というと、スケールが違うキングジョーのミニチュアを、強遠近法を使うことで撮りきり[1]で成立させるというのもそうですよね。

ああいうのも、「合成で」というのが今は当たり前なんでしょうけども、そうなると、現場が思考を止めてしまうというか、他人事になってしまう感じになるんですよね。そういうのが僕は嫌なんですよ。みんなで考えて、知恵を出し合って「こうすればうまくいくよね」という解を見つけるプロセスがとても好きなんです。
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942) 真珠湾のオープンセット
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942) 真珠湾のオープンセット
円谷英二 『S-Fマガジン』(早川書房)1964年1月号より
円谷英二 『S-Fマガジン』(早川書房)1964年1月号より

なるほど。現場でアイデアを出して、みんなで試行錯誤していくというのが、アナログ特撮の魅力ということですね。

アナログというか、特撮の魅力ですよね、それが。

[1] 撮りきり:合成処理を行わず、カメラの前に存在する被写体を撮影することのみで画面をつくり上げること。

「しまった、受けちゃった」から学びが生まれる

ここで一度時間を遡り、そもそも尾上さんが映像業界に入るきっかけがどのようなものだったのかについて、伺わせていただきたいのですが。

僕はもともと映画の仕事をやるなんて、全く思ってなかったんですよ。東京の大学に入学したのですが、高校の同級生だった(後の映画監督の)緒方明が、僕より先に東京に出てきていて、彼が石井聰亙監督(現・石井岳龍)の自主映画の助監督をやっていたんです。それで「ちょっと手伝ってよ」と誘われたのがこの世界に入る切っ掛けです。そのまま映画づくりにハマってしまって、自主映画の制作費稼ぎのために先輩に紹介されたアルバイト先が東映撮影所の小道具の会社でした。

尾上さんと言えば操演[2]のイメージが強いのですが、自主映画時代は美術をやられていたそうですね。映像業界に関わるにあたって、いろいろな技術を習得されていったのでしょうか。

作り物とか画を描くのが好きだったから、自主映画じゃ美術を担当させられましたけど、映画については全くの素人。学校にも行ってないです。撮影所で雇われた次の日から何も知らないまま小道具係として現場に出されて、本当にいろいろな作品につかせてもらいました。先輩が手取り足取り教えてくれることもなかったし、見様見真似で覚えたという感じです。当時あまり予算がない作品だと、弾着とか小さな火薬は、小道具係が任されることが多かったんですよ。ただ、火薬を扱うには資格が必要だったので、取扱いの免許を取ったんですね。そうすると、「免許を持ってるんだから、これもやって」と雪だるま式に任される仕事が増えていくんですよ。そのうちに「お前、この電飾の回路つくれる?」と言われて「じゃあ、弱電のことを勉強しようかな」とか、作り物を頼まれると「材料はどうしようかな」とか、そんな感じです。そもそも、頼まれると断るのが苦手なので、「お前やれる?」と言われたら「はい」と言ってしまうんですよ。それで「しまった、受けちゃった」となって、それに応えるには自分で勉強するしか無い。そういうことの繰り返しで、制御モーターのこととか、カメラや照明のことも、結局覚える羽目になって、今に至ると。

その積み重ねで、できることが増えていったのですね。まさにチャレンジ精神です。

チャレンジというか、そうしないと食っていけなかったっていうのもあるんですけどね(笑)。半分は先輩に聴いて、半分は独学でした。
テレビドラマ『黒部の太陽』(1999)の撮影現場
テレビドラマ『黒部の太陽』(2009)の撮影現場 写真提供:尾上克郎

そしてその後、東映の特撮研究所に入られることに。

すぐ後、ではないです。CMとかコンサートの特殊効果マンをやって、いろいろあって海外に出てみようと思って、香港で映画の仕事をさせてもらったり、CMの海外ロケなんかを手伝いながら彼方此方フラフラしていました。そのうちにビザも切れて、帰って久しぶりに国内のCMの現場を手伝ったんですが、ギャラは良かったけど、やっぱり映画が恋しくなってですね。それで東映撮影所に遊びに行った時に、「お前、ちょっとやる?」と言われて操演の仕事をやらせてもらえることになって、その時、ちょっと覗いたのが、特撮研究所の現場だったんです。 その頃って、「映画は根性」みたいな感じでね、普通に怒号が飛び交ってましたけど、特撮研究所の現場は、みんなシーンとしていて、細かい作業を黙々とやっているんですね。モーターで模型を動かすとか、薬品を使ったり、と科学的な匂いもしたし、何と言っても、鈴木旭さんという伝説の天才操演技師がいらして、シビレるような仕掛けをやってた。僕はそこにインテリジェンス(笑)を感じちゃったんです。それで「面白そうだ」と。名前も「研究所」ですしね(笑)。

そして、特撮研究所に入られて、長く操演のお仕事に携わられることになるわけですね。

尾上克郎
[2] 操演:仕掛けを用いて動かないものを操り、演技させる部署。特撮においてはミニチュアをピアノ線で吊るワイヤーワークがよく知られているが、機械仕掛けによるミニチュアの操作や、埃による効果も操演部の仕事である。東宝以外では、火薬や化学薬品を扱う「特殊効果」の部署の仕事を、操演部が兼ねることも多い。

「デジタル」という言葉が一般的ではなかった頃

アナログ特撮の話をこれまで伺ってきましたが、CGに出合われたタイミングも、このあたりの頃ですね。

1983~84年ぐらいですかね。ロバート・エイブルがつくったパナソニックのCM(※『Panasonic: Glider』〈1981〉)の発表会が秋葉原であったので、観に行ったんですよ。ワイヤーフレームの紙飛行機が飛んでいる映像だったのですが、飛ぶ飛行機に対して自由にカメラがついていくような映像だったんです。僕は操演をやっていたので、「こんな飛び方は(操演では)絶対できない。次の時代はこれか?」と思っちゃた。

それですぐさま、ローンを組んでパソコンを買われたそうですね。

その帰り道に。ローンが終わる前に、そのパソコンは壊れてしまいましたけどね(笑)。パソコンは、NECの何かだったと思うんですけど、本体自体は確か50万円くらいでした。でも、当時はメモリが高くて、256(MB)で200万円くらいしたのかな。8インチのディスケットを差し込んで(OSを)立ち上げていたのですが、立ち上がるまでに2~3分かかっていました。BASICでプログラム組んだり、DOSでモーター動かしたり。Windowsではなかったです。それに、ちょうどアメリカでMacを売り始めた頃でしたかね。

本当に先駆けの頃ですね。

まだ当時は「デジタル」という言葉すら、一般的ではなかったと思いますね。CGも「コンピューターグラフィックス」という言い方をしていましたから。

略称の「CG」が定着する前だったということですね。そうして購入されたパソコンでCGを、これまた独学で勉強されたということでしょうか。

そうです。まだGUIでも無いし、マウスも画像処理ソフトもなかったので、自分でプログラムしていました。

そういった、いわば日本でのCG黎明期において、独学で勉強するための情報をどのようにして入手されていたのですか。

CGの本や英語の文献が神田とかにあったんです。「ワイヤーフレームとは?」とか、それを描くためのプログラムの組み方とか、そういうものが書いてある本ですね。それを読みながらやってみて、「ああ、できた!」みたいな感じですよ。最初は、2次元のグラフにドットを描かせるみたいなことから始めました。
映画『私は貝になりたい』(2007)撮影現場
映画『私は貝になりたい』(2007)撮影現場 写真提供:尾上克郎

特撮研究所CGヒストリー

尾上さんが個人としてCG技術を身につけられた一方で、特撮研究所でのお仕事として、CGやデジタル技術はどのように導入されていったのでしょうか。

アメリカ映画界のデジタル革命から、しばらく経って、日本でも東宝の特撮映画などでデジタルを使った合成が使われ始めた頃ですかね、特撮研究所が「スーパー戦隊」シリーズや「メタルヒーロー」シリーズをやっている中で、僕の師匠の矢島信男監督に東映から「そろそろ新しいことを」というプレッシャーがかかるわけです。それで矢島監督から「君がプレゼンをしなさい」と言われたので、「こういうのがあったらやりたいけど、つきましては、お金を……」という資料をつくって東映にプレゼンしました。そうしたら東映が補助金を出してくれまして、それでマシンを入れて、デジタル合成のテストケースをつくり始めることになりました。

テストケースというと、放送される映像作品になる前の、社内での実験的なものをつくられたということですか?

いえ、いきなり作品です。今はそういうことも許されるかもしれませんが、当時は成果を出さないと、矢島さんも東映も納得してくれなかったんですよ。

最初期の作品としては何になるのでしょうか。『ビーファイターカブト』(1996)の頃に、特撮研究所のCG部ができたとのことですが。

ちょうどその頃だと思います。CG部というか、僕一人でしたけど(笑)。

それまでの東映の作品でも、『特救指令ソルブレイン』(1991)のソルドーザーの変形や、『ウルトラマンVS仮面ライダー』(1993)のタイトル部分など、3DCGが使われている場面はありましたよね。

あれは外注ですね。それを「内製でやれ」という話になっていったのだと思います。

あえて外注してまで3DCGを入れていたということは、「新しい映像表現を入れていきたい」という機運が当時の東映の中で醸成されていたのでしょうか。

それはあったと思います。テレビ局やスポンサーの要求もあったろうし、社会の風潮も大きかったでしょうね。

CG部立ち上げの翌年は、「スーパー戦隊」シリーズだと『電磁戦隊メガレンジャー』(1997)ですよね。デジタルをモチーフとした世界観の作品でしたが、その時期にCG部が立ち上がっていたというのも、そこに影響していたりするのでしょうか。

それはないと思いますよ。世の中に「デジタル」という言葉が広まった故の企画だろうし、偶然タイミングが合っただけでしょう。ウチからすれば社内でCGがつくれるようになって、外注より安いわけだから、使いますよね。それだけ。確か、あれが「スーパー戦隊」シリーズのロボットの変形にCGを使った、最初の作品だと思います。もちろんミニチュアがほとんどですけど、飛んでくる宇宙船とか変形の一部でCGを使いましたね。その映像をつくるために、CG部に人を入れました。ただ、全くの素人にマニュアルをポンと渡して、「これを覚えなさい」という感じでしたが。

『メガレンジャー』の時は、尾上さんは「デジタルエフェクト」としてクレジットされていらっしゃいますね。

当時はまだフィルム撮影で、オプティカルの合成と区別するのに、デジタルを使った合成を日本じゃ「デジタルエフェクト」と呼んでいたんですよ。あの頃は操演もやっていて、それが終わったら、パソコンで合成をやって、3DCGもやって、みたいな感じでしたね。

それらを包括したデジタル関係のお仕事としての「デジタルエフェクト」なのですね。その後数年経って『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)になると、3DCGで表現された巨大動物のパワーアニマルが出てきますよね。「スーパー戦隊」シリーズの3DCGを語る上でエポックメイキングな作品ですが、あの時も尾上さんは「デジタルエフェクト」としてクレジットされていらっしゃいました。一方で特撮研究所の中には「CG」というクレジットも別で出てきていますよね。

ここで「CG」と言われているのは、いわゆる3Dアニメーションも含めた3DCGということです。それまで「デジタルエフェクト」は所謂ジェネラリストが回してたんだけど、それじゃ追いつかなくなって、アニメーションとかモデリングとかコンポジットとかの専門分野に枝分かれが始まる時期で2D-2Dとか2D-3Dとかを区別するようになったんですね。当時、樋口真嗣監督とかVFXスーパーバイザーの佐藤敦紀君が参加していたデジタルエフェクトのグループがあって、仲が良かったんです。それで「こういうの、興味があったらやってくれない?」と頼んだら、アニメーションが複雑な変形シークエンスなどをやってくれることになったんです。2D-2Dの合成とかモーフィングとかは、うちのCG部が担当したと思います。

そういった経緯でしたか。とはいえ、デジタルに関わるスタッフが別クレジットとしても出てくるようになったということは、かつては尾上さん一人としての部署だったCG部にも、人員がどんどん拡充されていったということでもあるわけですよね。

まあ、「どんどん」というほどでもないですけどね。
映画『太平洋の奇跡—フォックスと呼ばれた男』(2013)撮影現場
映画『太平洋の奇跡—フォックスと呼ばれた男』(2013)撮影現場 写真提供:尾上克郎
後編は5月11日に公開予定です
プロフィール
特撮監督
尾上 克郎
ONOUE Katsuro
尾上克郎

映画、CM、TV、舞台などの美術、装飾、特殊効果をへて、1985年より株式会社特撮研究所に参加。1993年より特撮監督となる。1996年よりデジタルエフェクト監督も兼任。主に「スーパー戦隊」シリーズの特撮操演を担当するほか、監督補として映画も数多く手がけている。代表作に『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(1999)、『のぼうの城』(2012)、『シン・ゴジラ』(2016)、『新幹線大爆破』(2025)など。株式会社特撮研究所専務取締役。

インタビュー・構成:坂口将史
撮影:畠中 彩

公開日:2026年4月27日

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